【Knight and Cherry】    五百香ノエル ◆ プロローグ  クロス大陸はその名前の示す通り十字型をした大陸だったが、その大地が十字型をしているかどうかは誰も知らない。  実際に全体を見た者がいないからである。  十字型の大陸には、周辺の島国も含め、いくつかの国家が乱立していたが、戦争による災禍《さいか》は、およそ百年の長きにわたって免《まぬが》れていた。  きな臭いムードがないではなかったが、それはいつの時代でも変わりのないこと。  大陸は平和だった。  平和をありがたく感じるためには、長すぎるほどに長く──。  クロス大陸の最北端に位置する〈ローザ〉は、“花の”と冠される雅《みやび》な王国である。  各地の名産は薔薇《ばら》で、抽出されるエキスは、香油に、食品に、多種多様に広く利用され、重宝されている。  国は豊かで、人心も大らかなことで知られていた。  しかし──。  花の王国ローザもまた、他の国家と同じく、長き平和によって怠惰を貪る権力者が後を絶たず、地方都市においては、虐げられる人民の鬱屈《うっくつ》、不満が、日々蓄積しているのも事実だった。  ローザの若き女王、ローズリンデ十世は、事態を憂えたが、その手腕に疑問を抱く臣民もまた少なからずいたため、画期的な改革はなされることがなかった。  改革はなされない……。  それこそがまさに悪意持つ人々のほくそえむ要因となったわけだ。  が、女王は天才ではなくとも、無能ではなかった。 ◆1 花の都  王都を遠く北に臨んだ都市クレリアは、都市の入り口である凱旋門まで続く道沿いの数十キロに薔薇畑が続いていた。  ローザのたいていの都市がそうであるように、クレリアもまた薔薇によって生計を立てる者たちが多く集まっており、都市の賑わいは周辺までとどろいていた。  が、その町も、きな臭さからは無縁ではいられない……。 「さぁ、そろそろ準備を始めようじゃないか」  薔薇の香りに包まれながらそう言ったのは〈赤鴉《あかがらす》〉一座の座長ルチアナだった。 〈赤鴉〉は旅の劇団である。  音楽と歌と芝居を提供し、町から町を渡り歩く。  町々の間を移動するのは“船”だ。  陸上を浮遊する“陸上船”である。  巨大な四角い船に数十人もの団員が乗りこみ、寝起きを共にするのが旅団と呼ばれる人々であり、一座もこういった生業《なりわい》を持つ。  陸上船の中には町の中心街で公演をするためのテントを運ぶ小ぶりのキャラバンも用意されており、これを獣馬が数頭で引くのが、一座の基本的な足となっていた。  ルチアナの声に『おおっ』、という元気な返事が船内のあちこちであがる。  跳ねた赤い髪がやんちゃ坊主を連想させる少年もまた、クレリアに入る準備を始めようと甲板《かんぱん》を走っていた。  年のころは十六、可愛らしい顔立ちはまだまだ子供っぽく、きりっと結んだ唇は凛々《りり》しい。  眉は優美な少女を連想させたが、手も足も長く健康的で、全身がバネといった風な様子なのは、いかにも少年らしかった。  自分の仕事がなんなのか、はっきりとわかっている者特有の確かな足取りで、彼は蒸気の生ぬるい匂いが漂う船の通路に入る。  どんな動きをしていても、鈍重《どんじゅう》さはかけらも感じさせなかった。  不健康な気配のまるでない少年というのも、当世めずらしいことである。 「お待ち……っ、チェリ」  と、その疾風《はやて》のような少年の首ねを掴み、一人の女が個室に引っ張り込んだ。 「なんだよ、ジュゼット」  自分の首を痛そうに押さえ、チェリと呼ばれた少年は不満いっぱいに言った。 「もう町の入り口は見えてるんだぜ?」 「お腹が痛い」  青ざめた顔でそう言ったのは、一座の花形女優ジュゼットである。  白い整った面貌《めんぼう》に赤い唇、うねる金髪が肩口を覆った姿は“花形”にふさわしい。  演芸を生業とする各旅団にはたいてい花形がいたが、ジュゼットもまたそういった花形の中でも、特に目立つ部類であると言えた。  美しさはもちろんだったが、その演技は人を惹きつける才能に満ちており、彼女の存在は〈赤鴉〉においては生きた宝とも呼べるものだった。 「痛いのよ、わかった?」  だが少年の首をガッチリ掴んだ力は強く、吊り上った眉は有無を言わせぬ迫力があり、少なくとも優美な、とか、可憐な、といった表現は似つかわしくないように見える。 「どうなの? チェリ」 「……わかったよ」  上からものを言われた少年は、うんざりした態度で赤い唇を歪めたものの、おとなしくなった。  一座で一番怖いのはルチアナだったが、怒りっぽくて我儘《わがまま》なジュゼットは扱いが面倒くさい。  青い顔で主張している“腹が痛い”というのも、仮病ではあるまい。 「うう……」  少年はジュゼットが毛虫のように這いずってベッドに向かうのを見て気の毒にと肩をすくめた。  ジュゼットの“月のもの”が重いのはよく知っている。  どんなに若く見えたとしても彼女は三十路《みそじ》で、思春期とはとても呼べない年代だったが、それでも体の造りは繊細にできていた。  少年はジュゼットが木綿の布団の中でウンウンうなっているのを横目に、ため息混じりで鏡の前にすわる。  日焼けした肌に白粉《おしろい》を塗り、華やかな化粧を施《ほどこ》していく手付きは慣れていた。  一通り顔ができあがってしまうと、首筋に手を入れ、うなじあたりをいじくる。  生え際でパチンパチンと音がしたかと思うと、少年は跳ねた赤い髪の毛をゴッソリと引き剥がした。 「ふう」  すっきりした様子で吐息した彼の赤い髪は精巧なカツラで、その下には紐でまとめた長い金髪が波打っている。  ドレッサーに置かれたジュゼットのブラシで背中を覆うほど豊かな髪の毛を梳《と》かすと、アッと言う間に少年は、化粧の似合う美貌の女性へと変身していた。    ◆◆◆  女の匂いが充満した部屋は、華やかできらきらと輝いていた。  少し前までのクレリアでの流行は、淫靡《いんび》さを強調した背徳ムードたっぷりの陰気な装飾だったが、最近ではこうしたきらびやかな造りが流行だ。  豊かで人工も多いクレリアは、王都の流行をいち早く取り入れるのが自慢で、税の高さから物価は高いが、最新流行の生活スタイルは約束されている。  金色の縁取りがされた絹のリネンの中でぼんやりとシャンデリアを見上げていたエウバート・ザイバッシュは、鳥のように細く長めの首をひねった。  上半身は裸で、艶やかな肌が光を反射している。  皮膚の下で鍛えられた筋肉のラインが適度に浮いて見えた。  銀色の豊かな髪がむき出しの肩口を覆い、匂い立つ若い色香を振りまいている。  しどけない格好をしていても、どこかしら上品な気配が漂っているのは、彼の氏素性《うじすじょう》の確かさを思わせた。  そういった雰囲気というものは、繕《つくろ》おうとしてどうにかなるものではない。 「エウバートさまぁ」  クレリアで一、二を争う高級娼館〈蜂の巣〉の、更に一、二位を争う高級娼妓のマリアは、美しい若者の素肌に指を這わせて甘い声音《こわね》を漏らした。 「そんな遠い目をなさっちゃ嫌です。マリアだけを見てくださいませ」 「見てるさ」  エウバートは薄く微笑んでマリアに視線を移す。  その甘い声は、クレリアで浮名《うきな》を流したエウバート・ザイバッシュの名を確定した天賦《てんぷ》の賜物《たまもの》である。  スミレ色の瞳は切れ長で柔和《にゅうわ》、通った鼻筋は高く、唇は男らしく引き締っている。  優美な顔立ちは貴族らしく高貴だが、微笑むと悪戯《いたずら》な少年の色がのぞき、一層の魅力をかもし出した。 「エウバートさまぁ」  呼びかけたマリアはそれ以上の言葉もなく、ウットリと青年を見つめて優しい口付けをねだった。 「ん……」  と、その唇が触れ合うより先に、ドタバタと音がして無遠慮に部屋のドアが開かれた。 「エウバート! 旅の遊興《ゆうきょう》一座が凱旋門をくぐったぞ」 「おおっ」  男友達の報告に目の色を変え、エウバートはマリアを放ってすっくと立ち上がる。  立ち上がるとその細身の体がいかに長身かがハッキリした。  バランスの取れた四肢もまた、女を陶酔に誘うだけのものではない確かさがある。 「久しぶりの異変だな」  彼はさっそく出かけるしたくを始めながら浮かれた口調で問うた。 「〈蛙《かえる》旅団〉か? 〈蟲《むし》の子一座〉か?」 「〈赤鴉〉だ、クレリアには初めてのお目見えの一座だぞ!」  サイファー・オーディンは二つ年下、十九歳の友人エウバートに軽くウインクしてみせた。  こちらも素晴らしい金髪碧眼の美青年で、ブルーの装束の上に裏地が深紅の立派なマントを羽織っている。  背中を向ければ黒地に縫い取られた赤い薔薇と、金の十字があわさった王国の紋章が刻まれているのがわかるだろう。  ただし肩口の憲章《けんしょう》は銀色、女王騎士団の見習いを示している。  本物の女王騎士団の騎士は、金色の憲章が誇りとされているのだ。  各領地は女王が派遣した騎士団によって治安が保たれている。  騎士見習いの若者たちとは、貴族の子息が女王への忠誠を示して自発的に各地を守護する役目を担うが、これは事実上の徴兵、兵役に相当していた。  エウバートにしてもサイファーにしても、このクレリアが故郷というわけではない。  いずれ任期を終えれば、誰かと剣を交えることもなく、悪と戦うこともないまま、先祖から受け継いだ土地や財産を受け入れる身の上なのである。  無論、任期を終えてなお、騎士として名を成すために金モールの地位を求めることもできたが、この安穏《あんのん》とした世界で、騎士になって冒険や功名《こうみょう》が得られるわけもない。  貴族の若者たちはたいてい、故郷に帰って平和と退廃に満ちた、それでも恵まれた人生を歩むことになるのが常だった。 「待って、エウバートさまっ、行ってしまわれるおつもりなの?」 「うん、見に行ってくるよ」  なんのためらいもなく、しかしかろうじて足を止めて別れのキスを置いていくだけの気は利かせて、エウバートはムッとしているマリアから離れる。 「またな、マリア」 「また、って、いつですのっ! エウバートさまったら!」  しかしマリアの切なる声を遠く、若き騎士見習いの興味の矛先は、すでに華やかな娼館から、眩しい陽光の下へと飛んでいた。  母船を町の港に置いた〈赤鴉〉一座は、遊興公演に必要な小船に分乗して、クレリアの中心街に向かった。  石畳の路地は美しく、広場の中心にしつらえられたローズリンデ女王即位の記念噴水は、豊かな水を噴き上げて空間芸術を演出していた。  町の人々の歓声を受けた一座は、薔薇の花びらでの歓待を受ける。  人々は比較的幸福そうで、だれもがみな繕いのない装束に身を包んでいた。  一歩路地に入れば、そこでどんな悪事が渦巻いているかはわからない。  しかし少なくともクレリアの豊かさだけは、真実と言えるだろう。  それはただ通り抜けるだけの目にも明らかだった。  人の集まる広場の中心街にテントを張り、一座はさっそく公演のチラシを配り、興行を始める。  大きなテントの内部からは、特設舞台を設置する職人たちが奏《かな》でる木槌《きづち》の音がトンテンと小気味よく聞こえていた。  道化師《どうけし》が演目を口上《こうじょう》し、テントの前では賞品付きのゲームが出店される。  子供たちには駄菓子が配られ、大人たちには明日の夜の芝居の割引チケットが配られた。  賑やかな街並みが一層賑やかになったそのとき、テントに備え付けられたセットの露台に一人の先触れが立った。 ──パッパカパーッ  金色のラッパが鳴り響き、集まった人々の視線を集める。  金色の布地で装飾された露台の前は、押すな押すなの人の波になった。 『皆様お待たせいたしました。我が〈赤鴉〉の美貌のマドンナ、“黄金のジュゼット”の初お目見えです』  緑色の服を着た羽根帽子の少年が、集音機を通した声音で高らかに告げると、集まった人々は一層の歓声をあげた。  赤いカーテンが重々しく左右に開かれ、大きな白い羽根扇で顔を覆った“ジュゼット”が現れる。  金色の髪の毛を宝石で飾り、薄物のベールをまとったその装束は、クレリアの女たちが指差して羨望《せんぼう》の声を漏らす最新流行のデザインである。 『誉《ほま》れ高き花の王国においても、一、二を争う芸術の都、クレリアの麗しき皆様、お会いできて光栄の極みですわ』  甘やかな、少々癖の強い忘れがたい声がそう言った。  張り出した胸に蜂のようなくびれ、ドレスに覆われていてもわかる艶《なまめ》かしい腰つきに、男たちのどよめきが走る。  ほどなくして花形が顔を出さないことにブーイングが起こったが、ジュゼットは気にしない風である。  大きな羽根扇をヒラヒラさせて、チラチラと隙間からその美貌をさらすことで、一層観衆の興味をそそる。 『“黄金のジュゼット”の美麗なるかんばせは、ぜひ一座の明晩《みょうばん》の公演、“青き花嫁”をご覧になって、皆様のその目で確認していただきたいものです』  少年がおどけた調子で幕引きをしようとした時だった。  悲鳴に近い声があがって、露台に注目していた人々の視線が動く。  ざわめきに『カニガン一家だ』という声が混じっていた。 「…………」  露台に上がったままの緑の服の少年と、“ジュゼット”が横目を合わせる。  やがて人垣が割れ、いかにも裏街道を歩いていますと言いたげな一団が現れた。 「やめろやめろ」  先頭に立った大きな男が割れ鐘のごとき声音で言った。 「お前たちはいったいどこの誰に許可を得て興行を始めたんだ」  人垣はしだいに分散しはじめ、無法者らしく見える柄の悪い男たちだけが、石畳の広場の上に残った。  先頭の男は茶色い癖毛に茶色い大きな目をしていたが、愛嬌《あいきょう》とは無縁のいかつい巨漢で、剥き出した腕にも顔にも剛毛がぼうぼう生えていた。 「そういうお前様はいったい何様で?」  露台の上でジュゼットが言った。  可愛らしい特徴的な声はやや低く、ともすれば女の声には聞こえない。  しかしなんとも言えぬ響きを語尾にまとっており、男をとろかす術《すべ》を心得ていると思わせる。 「俺はこの界隈を仕切ってるマルコだ」  マルコと名乗った男は分厚い胸を張り、尊大な調子で露台を見上げる。 「クレリアではまずこの俺を通してもらわなきゃ興行はできないと思うんだな」 「へぇ」  ジュゼットはいかにも馬鹿にした風に何度も頷いた。 「私たちは州知事さまの興行手形をいただいて、御領主様にも許可をいただいてこの街で興行するために来たんだけど、場末のチンピラにまで挨拶しなきゃならないなんて、花の都と謳《うた》われたクレリアの株もずいぶん下がったもんだわね」 「なんだと、このあま」  定番のセリフを吐き捨てたのはマルコの後ろに控えていたチンピラだ。  五人の男たちはどれも百戦錬磨といった顔つきをしており、腰には物騒な光物も携帯している。 「文句があるってなら聞いてやるぜ、そんな高いとこにいるんじゃなくて、目の前でさえずってみな」  手下を制する鷹揚《おうよう》な素振りで、マルコはにやついた。 「可愛い真似の一つもしてくれるなら、俺から上に話を通してやろうじゃないか」 「あら、可愛い真似ってどんな真似のことだろう」  言い捨てるとジュゼットは、ひょいっと片手でスカートのすそをまくりあげ、羽根扇を手にしたまま、身軽に露台から飛び降りている。 「うわっ」 「きゃあっ」  歓声とも悲鳴ともつかない声が、広場に集まって取り囲んだ人々の口から漏れた。  当のジュゼットはおよそ二メートルほどの高さをハイヒールで飛び降りてものともせず、大きな羽根扇で相変わらず顔を隠したままだった。 「教えてもらいたいわね、可愛い真似ってやつをさ」 「ふふんっ! 教えてやるさ」  マルコがむくつけき手を伸ばし、ジュゼットのほっそりした腕に掴みかかった。  しかし目にも止まらぬ速さで、いつの間にかジュゼットの体はマルコから体一つ離れている。  むっとしたマルコが更に掴みかかったが、結果は同じだった。 「教える気がないなら、邪魔だからさっさと消えてくれないかしら」  ジュゼットの挑戦的な言葉に、男たちはいきりたった。  その勢いでジュゼットと取り囲み、数にものを言わせようとしたがうまくいかない。  ジュゼットは機敏《きびん》で、そうして男たちを複数あしらいながらなお余裕があった。 「ジュゼットさま、すてきぃ!」 「いかすぜ、ジュゼット」  恐る恐る見守っていた人々が声をあげてジュゼットの応援にまわるのを待つまでもなく、マルコたちの不利な形勢は明らかだ。 「ふふふ」  軽やかなジュゼットは男たちの腕をひょいひょいと避け、蝶のように舞って指一本触れさせない。  時折危ういシーンがあっても、扇の陰からのぞかせた美貌に歪みはなかった。  化粧に施された美しく強靱《きょうじん》な女優の活躍に、広場は興奮のるつぼとなった。 「おぼえてろっ」  これもまた定番のセリフを吐き捨て、マルコたちはほうほうの態《てい》で逃げ出す。  これ以上恥をかくわけにもいかないと判断しての撤退である。 「覚えてますとも」  ちゅっと、扇越しに投げキスをして、ジュゼットは歓声を浴びながらテントの中に消えた。  あとにはジュゼットの活躍を噂する人々が、明晩の舞台を楽しみに、口々に女優の活躍を賞賛する声だけが残った。    ◆◆◆  騒動のあった表通りから路地を一本隔てれば、そこはもう華やかな花の都の裏街道である。 〈鮫肌亭《さめはだてい》〉は食事のほかに酒類も昼間から振舞う店で、中二階までいっぱいの客であふれていた。  その客のほとんどが、口々に〈赤鴉〉一座の話題を昇らせている。 「あれはどんな女なんだろうな」  場末の酒場にふさわしいとは言えない若き騎士見習いの二人、エウバートとサイファーもまた、広場での騒動を肴《さかな》に昼間からビアを口にしていた。  花の都と謳われていても、そこは大陸に広まった平和による頽廃《たいはい》が染み付いている。  華やかな都会では裕福の代償の退屈が抱き合わせになっていた。 「カニガン一家のマルコをあしらえる女優とはな」 「マルコはただの三下さ」  うそぶいてエウバートはあざ笑う。  マルコを含めたカニガン一家がクレリアのダニだということはわかっている。  しかしどんな美しい町にも、暗部は付き物だ。  クレリアを統治しているのは領主のコーカサス卿であり、彼がお世辞にも善良と言いがたい人物であることは、あまりにも有名だった。  中央政府から州知事を通して派遣された官吏《かんり》が、領地の為政《いせい》をはかり、不正を見守る役目を担っているわけだが、この官吏の長であるルンバックという人物が、コーカサス卿に取り入る腰ぎんちゃくだという話もまた、決して知られていないわけではない。  図式はわかっていても、クレリアの人々の生活は困窮《こんきゅう》してはいない。  税の重さは承知のうえ、それでも人々はこの華やかな町での生活を求めているのが現状だった。  正義の旗を振りかざして騒動を起こすには、若者たちの情熱をそそる油は不足しているのである。  職種的にはクレリアの治安を守護する任を帯びていながらも、エウバートの興味も、不正を正したりするところにはなかった。 「それよりもあの女優が気になる」 「確かに、あれは只者じゃないな」  ニヤニヤと微笑んだサイファーも、頷いて黒ビアをあおった。 「明日の公演は絶対に観に行って、顔を拝ませてもらいたいものだ」 「なんだ、お前はそれだけで満足なのか? サイファー」 「おいおい、だったらものにするつもりなのか? エウバート」 「じゃじゃ馬ならしも、久しぶりに面白いかと思って」 「物好きめ。気まぐれな旅の女に似合いの、浮気者のお前らしいが」 「失礼なことを言わないでくれ。俺はただ、心の声に忠実なだけさ」  クスクスと、含み笑いする青年の横顔は、同性から見ても恍惚《こうこつ》をうながすだけの美貌である。  美しいものが好きなエウバート、熱しやすく冷めやすいエウバート。  しかしそれを知っていても、おもしろいようにクレリアの女たちはこの若き騎士見習いの甘い毒牙にかかるのだ。 「ん?」  と、そのスミレ色に澄んだ瞳が、フロアの一角に目をつける。 「あれは……」 「どうした」  サイファーも首を向けたが、エウバートが興味を示した対象には気付かない。  視線の先には鮮やかな赤い髪の小柄な少年と、その少年になにごとか話しかけている酔っ払いの一団があるだけである。 「あの赤毛の子供がなにかあるのか?」 「……あの腰つき……お前は気付かないか? サイファー」 「腰つき?」  子供の腰つきなどジロジロと観察する趣味はない。  うながされたサイファーは目に見えて嫌な顔になった。 「ちょっと行って来る」  ニコリと微笑み、エウバートは友人を置いて立ち上がった。  近づくと赤毛の少年は椅子から浮いて身を乗り出し、木目が鮮やかな卓の上に並んだ酒やつまみを、手にしたチラシ同様に男たちに勧めている。  チラシはあの〈赤鴉〉一座の公演のそれである。 “おごり”という単語に混じり、“カニガン一家”という言葉も聞こえた。 「失礼」  エウバートは赤毛の少年の背後から回りこみ、同じ卓に粗末な木椅子を寄せた。 「えっ」  酔っ払いたちはともかく、赤毛の少年は唐突に隣に現れた素面《しらふ》の青年の存在にギョッとして視線を向ける。  エウバートのスミレ色の瞳や、その美貌を目にした途端、少年の顔に驚きと、わずかな憧憬《どうけい》の色が現れた。 「やあ、こんなところで会うなんて奇遇だね」 「…………」  少年はすわっていた木椅子ごと、胡散《うさん》臭そうにエウバートから離れる。 「どうしたんだい? ジュゼット」 「ッ!」  呼ばれた名前にぎくっとした表情を浮かべ、少年は音を立てて立ち上がった。 「あぁん?」 「なんだって?」  酔っ払いたちはほろ酔いの顔つきをエウバートに向ける。 「いまなんて言ったんだい? にいちゃん」 「なんだ、君たちは知らずに彼女と話していたのか?」 「うわわわ!」  エウバートが屈託なく微笑んで更に話を続けようとしたところで、少年が奇妙な声をあげて制する。 「ありがとうっ! おじさんたちみんな、家族と一緒に公演には来てね」 「おおっ、行くともさ」 「行ってジュゼット嬢を拝ませてもらうぞ」  酔っ払いたちは手を振る中、少年はエウバートを引きずるようにして店を出て行った。  人通りのある通りに出て、更に石畳の路地を裏に向かう。  しばらく進めば人声はなくなり、あたりはささやかな鳥の声だけが響く場所になった。  少年は微笑んでいるエウバートを物陰に連れて行ってから向き合った。 「お前いったい何者なんだ……っ!」 「エウバート・ザイバッシュ」  振りまわされていた長い腕を、弧を描くようにして優雅に持ち上げたエウバートは、マントをひるがえして銀色の頭を下げる。 「どうぞよろしく、麗しき人」 「……銀のモール」  マントを見やり、肩の憲章を見た少年はつぶやいて納得した。 「騎士見習いか……」 「君は〈赤鴉〉のジュゼット?」 「違う!」  少年は声をあげて否定する。  赤い短い髪が燃えるような色をして跳ねていた。  日に焼けた健康な肌色をして、無論服装はチラシ配りの少年らしく地味だが、見るからに清潔なものだ。  腰つきがどうのというエウバート以外の者からすれば、彼は十代の普通の少年にしか見えない。 「いったいどこをどう見たら、この俺を女と間違えるんだ」 「ここをこんな風に……」  言いながらエウバートは少年の腰周りを舐めるようにして眺める。 「うわっ!」  少年は飛びのいて声を荒げた。 「なにすんだっ! 俺は一座のただの小僧だよ!」 「ふぅん?」  不審げに、なおもエウバートは少年のつま先から頭の先までをジロジロと見つめる。 「キレイな瞳の色だね」 「ッ!」  間近で顔をのぞき込まれた少年は、ギクリとした態度で身を引く。  相手のあまりの美しさに、今更ながら赤面したのもその瞬間だった。  銀の髪、スミレの瞳の騎士見習いなど、まるで芝居の世界のナイトではないかと思う。  夢のような、現実ではありえない、夢想の中だけのナイト。 「バカにするなよ」 「バカになんてしてないよ」  エウバートは長めの首を傾げて優しく言った。 「名前を教えてくれないか? 僕のことはエウバートと呼び捨てにしてくれてかまわない」 「…………」  胡散臭げにエウバートを見つめ、少年は腕を組む。 「なんで俺があんたに名前を教える必要があるんだか……」 「いいよ、じゃあ、仮にジュゼットと呼ぶことにしようか」 「チェリシュだよ!」  ジュゼットと呼ばれてはたまらないとばかり、慌てて少年、チェリシュは名乗りをあげた。 「〈赤鴉〉のチェリシュ・チェリーレイ! ジュゼットは一座の花形女優なんだ! これ以上人前でおかしなこと抜かさないでくれ」 「チェリシュ、チェリシュか」  ふふ、と、チェリシュの主張を聞いているのかいないのか、エウバートは楽しそうにその名前を口ずさむ。 「君がそう言うなら、君はジュゼットじゃない、チェリシュね、チェリシュ・チェリーレイか、いいとも」 「当たり前だっ」  エウバートの言葉に強く頷いたものの、チェリシュは不審げな態度は崩さなかった。 「ところで、君、チェリシュ、さっきは彼らにカニガン一家の話を聞きこんでいたようだけど?」 「…………」 「答えないつもり?」 「…………」  チェリシュは横を向いたままだ。 「ふうん」  おもしろくなさそうに、エウバートは優しい瞳を意地悪く細めた。 「……君のその腰つきは、どうも僕にとっては忘れ難いラインなんだけど」  沈黙を通そうとするチェリシュの腰を、再びエウバートは近くまで寄って観察しようとする。 「おいおいおいっ」  答える必要性を感じていなかったチェリシュは、大慌てで首を振った。 「よせよっ、この変態!」 「変態はひどいなぁ」  エウバートはわざとらしく傷ついた素振りをしてみせる。  ゆらめくマントに銀色の髪、そのスミレ色の瞳は場末の路地裏など似合わない。  華やかな王宮で、並ぶのは傾城《けいじょう》の美女でなくてはならない、そんな気にさせられる。 「話してくれるかな? チェリシュ」 「…………」  笑顔の騎士見習いに呆れつつも、チェリシュは拒めない勢いを感じる。 「……別に、他意があってならず者たちの詳細を尋ねてたわけじゃないよ」  そう言いながら、彼は路上に転がっていた石つぶてを蹴飛ばした。 「ここへ来るまでの道すがらでも、カニガン一家の話は聞いていた。暗に上納金を勧める輩《やから》もいたしね。別にそれくらいなら、どこの町でもあることだけど、それだけじゃなくて、気になる噂もあったからさ」 「気になる噂?」 「汚職の話さ」 「ああ」  そんなことなど、とエウバートは肩をすくめる。 「それこそどこの町でもある噂だろう」 「噂だけならね」  口の中で小さく苦く、チェリシュはつぶやいた。 「……それはともかく、アンタもさっきの広場での騒動は知っているだろう?」 「麗しのジュゼット嬢が蹴散らしたマルコたちとの悶着《もんちゃく》のことかな」  ニコリと、エウバートは楽しそうに言った。 「実に痛快だったよ。それに、夢中になった。どんな芝居より、生き生きと輝いて見えたよ、麗しのジュゼット」 「別にジュゼットがどうとかじゃなくて」  やぶへびだと言わんばかりの表情で、チェリシュは眉間に皺《しわ》を寄せる。 「いいから、ジュゼットのことは忘れてしまえよ」 「そういうわけにはいかないよ。ジュゼット嬢は、僕にとって、ちょっと忘れられないマドンナなんだからね」 「いいや、忘れろ!」 「君、一座の宣伝をするために来たんじゃないの? そんなこと言っていたら宣伝にならないじゃないか」  エウバートはあくまでもさわやかに笑い、チェリシュは困惑して口をへの字にした。 「いいよ、わかった、君のその可愛らしい唇に免じて、とりあえずマドンナのことは置いておこう。どうぞ、続けて、チェリシュ。僕が気になるのは、今のところ限りなく少年らしい君だ」 「…………」  ゾッとしたような素振りを見せながらも、チェリシュの頬は微かな血の色に染まっている。 「一座の公演中に、特に芝居の真っ最中とかにさ、またいちゃもんをつけられるんじゃないかと心配で、ちょっとこの街での連中の様子を探りたかっただけだよ」 「ふむふむ」  納得したようなそうでないような、エウバートの表情は曖昧《あいまい》だ。 「それでどうなんだい? 何か君たちにとっていいことがわかったのかな」 「別に、いいことなんて何も」  チェリシュは肩をすくめる。 「アンタが間に入ってきたから、話を全部聞けたわけでもないし」 「じゃあ聞きたいことは僕が教えてあげるよ、スイート・チェリシュ」 「あぁ?」  スイート、などと呼ばれたのは初めての経験のチェリシュは、一瞬愕然としたものの、平然としているエウバートの表情を見て微かに赤面した。  そっぽを向き、少し考え込む風を見せる。 「君が聞きたかったのはマルコのことかい? それともその後ろにいるカニガン一家のこと?」 「カニガン一家……ってのは、やっぱりあのマルコたちの親分が、クレリアにいるってことだよな?」 「その通りだ」  エウバートは微笑み、まるで善良な教師のごとき態度で小首を傾げた。 「この街の繁華街、裏街道の商売の類《たぐい》は、すべてカニガン一味の息がかかっていると言っていいだろう」 「なんの権利があって?」 「その質問は、兎《うさぎ》が狩人に対して向けた質問にも似て意味がないように思う」 「つまり法的にはなんの裏付けもない、ただのならず者ということだな」  ほっそりした腕を組み、チェリシュは石塀に背中を当てる。 「そんなならず者たちが、街であんな風に暴れまくっていても、女王陛下の騎士団の一員であるアンタは、見ているだけで何もしてくれなかったというわけなのか?」 「僕はしがない見習い騎士さ、女王陛下に拝謁《はいえつ》したことさえない、任期が終われば故郷でぐうたらするしか能のない貴族の坊ん坊んにすぎないんでね」  乾いた笑いを漏らしたエウバートは、道化を演じて両手を広げた。 「今はどうやって君の気を引こうか、それだけを必死で思案中だ」 「はぁ?」  チェリシュは聞こえない振りをして鼻を鳴らした。 「あんたみたいに軽い騎士見習いを見たのは初めてだよ」 「そうかい?」  一瞬だけ苦笑して、エウバートは路地裏の狭い青空を見上げた。 「この街だけのことなのかな? 僕のような騎士見習いが、することもなく町をふらついて、君のように可愛い子を見つけたときだけ息巻いてしまうのは」 「それは間違いなくアンタだけだと思うね」  言いつつも、チェリシュは青年騎士の白い顎の線を見つめて思案する。  軽い口調や行動とは裏腹、そのスミレ色の瞳には倦怠《けんたい》感というか、頽廃の持つ虚《うつ》ろで繊細な感情が透けていた。  これは色男の手管《てくだ》のうちなのだろうか?  このままなんとなく優しい言葉をかけてやりたい衝動に駆られて、チェリシュは内心で首を振る。  ただキレイなだけという理由でよろめくには、自分にはまだまだやらなければならないことが残っていた。 「なんにしても、領主の許可をもらって、州知事の許可証を持っていても難癖《なんくせ》をつけられるとは思わなかったよ」  吐息して気を紛らせ、チェリシュは勢いをつけて壁から離れた。 「…………」 “領主”という部分にわずかに反応を示したエウバートだったが、言葉はない。  チェリシュもそれに気付いていたが、特別尋ねようとはしなかった。 「要するにカニガン一家を名乗る連中には注意しなきゃならないってことだな」 「そうだね」  チェリシュの言葉に首を戻し、エウバートは歩き出した少年についていく。 「送るよ、チェリシュ」 「結構、まだチラシを配りたいしね」 「危ないよ」 「そんな危険な町だとは思わない」  後ろからついてくる気配に唇を歪め、チェリシュは振り向いた。 「あんたね、どれだけご立派な騎士見習いさんか知らないけど、俺は正真正銘の男なんでね、下心でもあるんだったらお門違いだぜ」 「下心をなくしたら男はおしまいだというのが、僕の持論なんだ」  含み笑いしたエウバートは、文句をつけるチェリシュの後をゆっくりした足取りでついていく。  やがて呆れたチェリシュは不満げな顔をしながら、広場のテントまで辿り着いた。 「チェリ!」  マルコの嫌がらせを避けるためか、テントの前で地味にチラシ配りをしていたチェリシュと同年代の茶色い髪の少年が、子犬のように走って迎える。 「ここまででいいから!」  キッパリ言って振り返り、チェリシュはエウバートの胸元に停止の手を伸ばした。  トンと、押した絹の手触りの下、先刻は夢中で気付かなかった筋肉の弾力があってドキリと胸が騒ぐ。 〈赤鴉〉一座の花形俳優は、御年五十を越えており、若いと言われる年代の道化やナイフ投げの達人も、チェリシュが“カッコイイ”と感じるようなタイプは皆無《かいむ》だった。  一瞬の葛藤《かっとう》で、チェリシュは内心で思いきり首を振る。  同性にカッコイイとか、キレイとか、いちいち“タイプ”で判断するのはよくない。  いや、間違っている! 「公演楽しみにしているよ、マイ・スイート・チェリ」  さっそくあだ名を口にして、エウバートはおとなしく別れの挨拶を告げた。  ギョッとしているチェリシュの顔つきなどお構いなしで、剣を帯びていても振るったことなどなさそうな白い手で投げキスをしていく。 「……チェリ、あれ誰」 「……知るか」  茶色い髪の少年に短く答え、チェリシュは残ったチラシを押しつけた。 「あとはよろしくな、ヘンケル」 「えっ、なんだよっ」  ずるいよ! という声を無視して、チェリシュはさっさとテント内に入った。  テントの中はきれいに仕切られており、明日の夜の公演準備でてんやわんやである。  チェリシュは職人たちと軽口を叩いたあとで、中心の仕切り内に入った。 「帰ったよ、座長」 「おかえり、チェリ」  中にいたのはビヤ樽をそのまま人間にしたような巨体を持ったルチアナ、〈赤鴉〉一座の女座長である。  派手な化粧を施した大きな顔は、どことなく愛嬌があって憎めない。  二重《ふたえ》になった顎も、見慣れると慕わしい心地にさせるのだから不思議なもので、ルチアナには肥満体に対する熱苦しさよりも、彼女の存在がかもし出す安堵《あんど》感の方が強く感じられた。 「それで、町でも聞きこみの収穫はあったかい」 「うん、まあね」  今も請われれば素晴らしいソプラノを披露するルチアナの美声に、チェリシュはエウバートの声の素晴らしさも思い出しつつコクリと頷いた。 「カニガン一家というならず者たちが、どうやら町の上がりをせしめているようだ」 「そいつは判ってるさ」  ルチアナは丸く盛りあがった肩をすくめて長い煙管《きせる》タバコに手を出した。 「マルコとかいう奴が食いついてきたのは、カニガンの指図だろう。問題はこのカニガンを放置している輩の方だよ」 「噂で出てきた名前は、領主と直接つながっている街の官吏、ルンバックだよ」  自分の情報が役立たないと言われるのは心外だとばかり、チェリシュが口を尖らせる。 「コイツがどうやらカニガンから甘い汁を吸っている黒幕らしい」 「ふぅん」  弓なりに描いた眉を吊り、ルチアナは不満そうにチェリシュを見つめる。 「それだけじゃあ、いかにもな話ってとこだねぇ」 「途中で邪魔が入ったんだよ、俺のせいじゃない」 「それってあの騎士見習いの色男?」  仕切りの幕をフワリとめくり、現れたのは金色の髪を普通の町娘同様に紐で結っただけの花形女優、ジュゼットだった。 「見てたのか? ジュゼット」 「見てたわよ」  ふふんと鼻を鳴らしたジュゼットは、ムッとしたチェリシュを押しのけるようにして大きな長椅子の一方に腰掛ける。 「具合はもういいのかよ」 「全然よくないわよ」 「ウソつけ」  小さく口の中でつぶやいたものの、チェリシュはジュゼットのために足置きのクッションを用意してやった。 「騎士見習いの色男ってのはなんだい?」 「銀髪にスミレの瞳の素晴らしい色男よ、おっかさん」  クククと、ジュゼットは白い手をヒラヒラさせて笑った。 「チェリったら、送られてほっぺたを赤くしちゃってさ」 「よせよ! 別にそんなんじゃねぇよ」 「チェリ、アンタ……」 「違うって!」  ルチアナに呆れた眼差しを向けられて、チェリシュは大きく首を振る。 「アイツ、あの見習い騎士、俺がジュゼットの替え玉で、マルコたちと渡り合ってたことを察してやがったんだよ」 「へぇ」 「なんだ、そうだったの」  感心したルチアナとジュゼットは、顔を見合わせた。  これまでの旅でチェリシュの女装を見破った目利きは一人もいない。  白粉や香水、身振りや扮装だけで、たいていの連中は華奢《きゃしゃ》で小柄な少年を妙齢《みょうれい》の美女と見間違える。  印象と実態とは、得てして異なるものなのにだ。 「いったい何者なんだい?」 「騎士見習いのモールをつけていた。エウバート・ザイバッシュって名乗ってたけど」 「聞いたこともないね」  ルチアナはフンッと大きく鼻を鳴らして紫煙《しえん》を吐き出す。 「アンタの正体がバレちまったら、この先の隠密《おんみつ》行動に支障が出かねないよ」 「ジュゼットがちゃんと働いてくれたら、別にあんな若造、どうってことない」  子供が青年を若造とは、いささか失笑ものの発言ではあったが、仕切りの内側の三人は、とりあえず声を潜《ひそ》めて後の相談を始める。  仕切りの外側では公演の舞台や客席をしつらえる準備が着々と進み、声はテントの外に漏れることはない。  秘密の話し合いはしばらくそのまま続くのだった。 ◆2 騎士“見習い”と姫“偽物” “青き花嫁”は、ラブロマンスにホロリとさせる要素を盛り込んだ、花の王国ローザでも有数の演目である。  旅の一座はそれぞれが独特の表現を行うことで公演の成否を分けており、〈赤鴉〉一座では、これに活劇要素をもたらすことで好評を博してきた。  テントの内側、一座の特設舞台は扇形の観客席に向かっており、裏方たちは一段低い場所から仕掛けを用意する。  前日には不調を訴えて人前に出るのを渋っていたジュゼットも、翌夜からの公演には万全の体調で臨んでいた。  観客たちは華やかで麗しい女優の美貌と、その溢れる才能の輝きに感嘆の吐息を漏らした。  出し惜しみするだけの価値はあると、観客の誰もが感じた一夜の公演は大成功を収めたのである。 「いや、素晴らしかったですよ! ジュゼット嬢」  大きく両手を広げて言ったのは、その大げさな身振りに見合わぬ小男の官吏、ルンバックである。 「ありがとうございます、官吏様」  熱気冷めやらぬ楽屋でくつろぎながら、ジュゼットは鷹揚に微笑んだ。  尖った繻子《しゅす》の靴を控えたチェリシュに脱がせてもらいながら、ふくらんだ裾《すそ》が床上にドレープを描く長椅子で艶然《えんぜん》と賞賛を受け入れる様子は、いささかルンバックに対して無礼であったかもしれない。  しかし盛り上がっているルンバックは気分を損ねた様子は見せず、手揉み状態で美貌の女優に近づいた。 「ジュゼット嬢、どうですかな、私はぜひ貴女のような芸術の申し子にこのクレリアに長居していただきたい」 「まぁ、とても嬉しいお言葉ですわ」  ほほほと、ジュゼットは曖昧な笑いを返す。 「ですけど、この街には私たち一座をよく思わない無頼《ぶらい》の輩もいるようですし、近いうちには出て行かなければなりませんわね」 「なに、そんな輩が現れたら、私の名前を出せばよいのですよ」  薄っぺらな胸を張り、ルンバックは保証した。 「…………」  羽根の扇を持ち出して顔を隠し、ジュゼットは顔を伏せていたチェリシュと苦く横目を合わせた。 「……ジュゼット様、確かにこのクレリアで、ルンバック様の威光《いこう》に逆らえる者はおりますまい?」  顔を伏せたまま上目遣いのチェリシュが、控えめな声音で口を出す。 「そうでございますよね? ルンバック様」 「もちろんだ」  どんと、自分の胸を叩いて軽く咳き込み、ルンバックはちょっといやらしい目つきになった。 「貴女の美しさは高貴な方々にとっても非常に関心のあるところだろう。この町で貴女の価値に見合う立場の方となれば、おわかりになりますね? 貴女は幸運だ」 「恐れ入ります」 「…………」  当たり障《さわ》りなく応えるジュゼットの広く開いた胸元からイミテーションジュエリーの首飾りをはずしてやりながら、チェリシュは内心で眉間を寄せる。  ジュゼットの青い目もまた、獲物を狙う鷹のように輝いていたが、ルンバックは気付かない。  舞い上がったルンバックは知らず、〈赤鴉〉たちの意思に従う交渉を自分から申し出ていたのである。    ◆◆◆  いつ訪れても良い気分がするということはない。  それなのにどうして通ってしまうのか、ルンバックはため息混じりに案内の小姓に従って、クレリア領主コーカサス卿の個人的な寝室に入室した。 「ルンバックか」  こもった低い声が天蓋《てんがい》付きのベッドの幕の向こうからした。  豪奢《ごうしゃ》な部屋は華美で、寝室であるというのに落ち着く気分からは無縁だった。  そのうえネットリと濃い薔薇の香りがたちこめて、汗のにおいと混じり合っているのだからなおたまらない。  鼻が曲がりそうでルンバックはクラクラした。 「どうだったのだ、その、生意気だという新しい女優の器量は」 「〈赤鴉〉一座の女優、名前はジュゼットでございます」  小姓が引き上げてしまったので、しかたなくルンバックはベッドの側に控えた。  一刻も早く帰りたい、こんなところに長居はしたくなかった。  断続的にミシミシと音がする。  濡れた卑猥《ひわい》な音とかすれた悲鳴のような声も聞こえた。  ため息をついて踵《きびす》を返したいところだったが、そうもいかない。  ルンバックには金が必要だった。  色はどうでもよかったが、彼は極度のギャンブル狂なのである。  カニガン一味などと関わりを持つようになったのも、それがキッカケだった。  いまとなっては切りがたい絆《きずな》である。  これまでも各方面にのっぴきならない借金があったが、たとえコーカサス卿に媚《こ》び、カニガンを従えたとしても、一銭残らず返せる当てはさすがにない。  なんだか底無し沼に入り込んでしまったような心地がしないではなかったが、この、色と欲に取り憑かれた背徳貴族の腰ぎんちゃくになる道以外は、浮かび上がれる手段はなかった。 「相当の美形でございますし、気の強さもまた最近の女たちの中では随一《ずいいち》かと」 「あの暴れ者のマルコと渡り合ったというなら、そうだろうな」  ぐふぐふと、楽しげな笑い声が漏れ聞こえる。 「美貌で男勝りの女優か……」 「明日の夜にはお屋敷で公演を行うとの約定《やくじょう》を取り付けました」 「でかした」 「恐れ入ります」  街の娼妓で見目麗しいと聞いた女たちにはみんな手をつけて、そのうち素人娘でもお構いなしになりそうな勢いのコーカサス卿の傍若無人《ぼうじゃくぶじん》ぶりは、ルンバックにとっても脅威だった。  卿が悪徳領主として中央政府に目をつけられてしまったら、自分も女王の委任状を受けた官吏としての責任を追及される。  倒れるときは一蓮托生《いちれんたくしょう》なのである。 「麗しきジュゼットか、ふふふ」  こもった声のあと、ますますベッドの軋《きし》み音は激しくなる。  透けたベールの向こう側で蠢《うごめ》く人影は、わかる限り三つあった。  そちら方面にはいたって淡泊なルンバックには、さっぱりわからない趣味である。 「お前も来ないか?」 「い、いえ、私のような不調法者《ぶちょうほうもの》は御遠慮するのが筋合いかと」  慌てて否定し、ルンバックは拷問《ごうもん》のような追従《ついしょう》の時間をこらえるのだった。    ◆◆◆  ドンという爆発した音がして、夜空に花が咲いた。 ──おおーっ  と、大きな歓声が上がって拍手喝采が起こる。  楽団が美しい音楽を奏で出すと、ざわめきや笑いが一層大きなものとなった。 〈赤鴉〉一座の花形女優ジュゼットを一目見ようと、金持ちや貴族たちが露台の周辺に集まっている。  この露台は町に設置されたものとは違う、領主の館の本物の露台である。  真っ白い柱がいくつも並び、その柱に蔓《つる》薔薇が巻きついた優美な露台だ。  注目を浴びた当のジュゼットは“青き花嫁”の衣装をまとい、艶然とした微笑を白い羽根扇の向こう側に隠していた。  時折チラチラとのぞく青い瞳を、高貴な観衆はどよめきをもって賞賛する。  演目は始まるまでは、道化の軽業《かるわざ》を披露していた。  砂糖菓子を作ってその場で配る香具師《やし》もいる。手持ち花火を子供たちに配る香具師もいる。  コーカサス卿の館は、普段の淫猥《いんわい》なムードから一転、賑やかで晴れやかな雰囲気に包まれていた。  そのコーカサス卿は露台に上がることを座長のルチアナに徹底拒否されてご機嫌斜めだった。  かたわらの腰ぎんちゃくルンバックに、話が違うと息巻いてはいたものの、芝居の前にジュゼットに近づいたら、演技ができなくなると言われてしまったのだから、どうすることもできない。  ジュゼットはあくまでも艶然と、決して微笑みはたやさずに観客たちに華を振りまいている。  文句を述べながらも、垣間見えるその美しさと成熟した女の色香に、コーカサス卿は早くも虜になっていた。  あれがしたい、これがしたいと、想像するだけでも鼻息が荒くなっている。  大きなでっぷりとした腹は、ふんだんなレースとフリルで縁取られた豪奢な装束に包まれていたが、その実態は蛙の親分といったところであろうか。  高貴な領主の風格などまるでなく、集まった貴族や金持ちたちも、あくまでもお愛想で挨拶するほかは、卿の友人として振舞うことはなかった。 「相変わらずだな」  領主の姿を目にし、溜息混じりにつぶやいたのは、誇り高き“はずの”騎士見習い、サイファー・オーディンである。  今夜は羽根のついた洒落《しゃれ》た帽子をかぶっており、時折淑女から浴びる秋波《しゅうは》に応える様子も粋《いき》だ。 「あの肥えた腹の上にクレリアのたいていの娼妓が乗っかってきたのかと思うと、気が重くなるようだ」 「今更だ」  短く言ったのはエウバート・ザイバッシュ。  こちらはいつものマントを青銀のロングコートの上に羽織り、憂いを秘めた眼差しを露台に向けている。 「この町にあって、いや、この世の中にあって、すべてが今更だろう、サイファー」 「まぁ、そうだな」  今日と変わらぬ明日、明日と変わらぬ今日。  その繰り返しが今の大陸の頽廃を生んでいる。  若者だけが平和に飽いているわけではない、が、若者が余計に疲弊《ひへい》を漂わせているのも無理はなかった。 「おい、そんな顔してジュゼット嬢を見ていたら、ふとっちょ卿に何を言われるかわかったものではないぞ」 「いや、ちょっと確認しただけだ。あの女優は俺のスイートではないよ」  苦笑してエウバートはマントをひるがえした。 「俺のスイートは、ふとっちょ卿の相手にはならないさ」 「…………」  何を寝言を、という表情を浮かべたサイファーだったが、ちょうど近づいてきた美女のささやきに気が削がれ、離れたエウバートの後を追うことはなかった。  星の輝く夜空にいくつもの花火が散って、いよいよ芝居の始まるラッパが吹き鳴らされた。  広い館の奥は、〈赤鴉〉一座の特設舞台を光とするならば、まるで影のようにシンと静まり返っていた。  あたりには人の気配はなく、従僕たちの姿も見当たらない。  金色の髪を愛らしく結い、金にパールの髪留めを挿したジュゼットが、真っ白いドレスの裾を擦りながら歩いていく。  趣味がいいとはお世辞にも言えない絨毯《じゅうたん》敷きの廊下で、彼女の姿だけが幽霊のように浮かび上がっていた。  音もなく歩く彼女の背後には、茶色い髪の少年、ヘンケルが控えていた。  あたりに気を配る様子は、少し頼りない子犬を思わせる外見と違って、油断のならない獣を想像させる。  目的があるのかないのか、二人を見ているだけではわからない。  時折ヘンケルがあたりを確認し、ジュゼットがドアの一つ一つを開けては中を確かめる。  鍵のかかったドアはなく、これほどの屋敷にもかかわらず、見張りの類もいなかった。 「…………」  やがて一番奥まった部屋に入ろうとしてドアノブに手をかけたものの、鍵がかかっていて開かなかったのか、渋い表情でジュゼットが顎をそらした。 「…………」  小さく頷いてヘンケルが無言で前に出ると、ゴソゴソと道具を取り出してアッと言う間に扉を開ける。  これを家人に見咎《みとが》められれば、二人とも言い逃れはできなかっただろうが、相変わらず人のやってくる気配はない。  二人は室内に入ってようやくホッとした顔を見合わせた。 「鍵は任せたぞ、ヘンケル」 「オッケー、チェリ」  チェリ、と呼ばれたのはジュゼット、もちろんこれがあの赤毛の下働き、チェリシュ・チェリーレイに違いなかった。  夜ということもあって白粉は薄めでも、充分に女性で通る。  よくよく見れば三十を越えたジュゼットの匂いたつ色香はないものの、まったく異なった清廉《せいれん》な美貌が、これはこれで独特の雰囲気をもたらして魅力だった。  チェリシュが男だとわかろうと、かまわないという輩は後を絶つまいと思わせる。 「チェリ」  ヘンケルがベージュ色の幕の内側に隠された額を見つけた。  薔薇が広がるクレリア郊外の高原風景が描かれたその絵画は、派手な装飾に彩られた部屋には不似合いだった。  その額を動かすと、どこかでカチンと音がする。  二人は音のした方向を目ざとく見つけ、仕掛け扉が開いているのを見つけた。 「念入りだなぁ」 「それだけ隠している秘密が大きいってことさ」  仕掛け扉の内側にも、また鍵つきの扉があった。  二人の少年は扉に張りつき、ヘンケルが気合を入れて鍵を開けにかかる。  こちらは少々厄介だったが、それでも時間を食うことはない。 「急ごう」  二人は足早に秘密の部屋に入る。  さして広くない小部屋は、灯りを点《とも》すとキラキラ輝く黄金に囲まれていた。 「ひゅう、ゴールド・インゴットだ」  積まれた金の板をつつき、ヘンケルが目の色を変える。 「こっちは金貨の袋ばかりだぜ。貯めこんでいるなぁ」 「そっちはいい、ヘンケル。書類を捜せ」 「わかってるって」  チェリシュの制止に残念そうな素振りを見せながらも、ヘンケルはゴージャスな宝を置いて紙の類に視線を移す。  チェリシュは金には目もくれず、引き出しや文箱《ふばこ》を開けて目的の物を探しつづけた。  ほどなくしてヘンケルが開けた鍵つきの引き出しの中に、それはあった。 「やった」 「長居は無用だ、引き上げよう」 「うん」  入り口に背を向けたチェリシュが、書類の束をドレスの裾に隠し終えたところで、パチパチという拍手の音が聞こえる。 「ッ!」  二人の少年が驚いて目を向けると、開いたドアの影に見習い騎士が立っていた。 「ブラボー、素晴らしい手際だった。大したドロボウさんたちだね」 「…………」  入り口を塞《ふさ》いだ格好のエウバートの言葉にチェリシュの頬に羞恥と、隠しきれない陶酔の血の色が昇ったが、背中にまわったヘンケルは気付かない。 「……盗人《ぬすっと》と一緒にされるのは迷惑だが、お前には関係ない」 「おいおい」  両手を広げ、エウバートはチェリシュの開き直った言葉に呆れた。 「現行犯を見つかって、最初の言葉がそれかい? チェリ」 「…………」  チェリシュは答えなかった。  答える言葉がない、というのが本音である。 「チェリシュ・チェリーレイ。只者じゃないとは思ったけど、まさかドロボウだとは思わなかったよ」 「盗人じゃないっ」  後ろからヘンケルが声をあげ、チェリがシッと唇に指を当ててみせる。  自分たちが盗人として突き出されるのは問題ではない。  問題は、その後なのだ。  いずれにしても、ここで二人とも捕まるわけにはいかなかった。 「お前は先に戻れ、ヘンケル」 「でも……っ」 「ここは任せろ」 「ちょっと待ってくれよ」  二人で勝手に交わされる会話に、エウバートが苦い顔で首を振った。 「まさかここを見逃してくれっていうんじゃないだろうね?」 「……話がしたい、エウバート・ザイバッシュ」  胸をそらし、チェリは後ろ手にたった今裾に隠した書類の一部をヘンケルにこっそりと渡す。  どちらか一方の証拠が残れば、それで充分侵入の目的は果たされるはずだ。 「お前が納得しなかったら、その時は俺の罪を問えばいい。だが、この子は見逃して欲しい。俺が二人分のあがないはする」 「チェリ……!」 「いいから」  声を潜めつつも一人逃げることはできないと拒絶するヘンケルに、チェリシュは目配せする。  二人とも捕まってどうする、と、その目は強く訴えていた。 「行け、ヘンケル」 「…………」  逡巡《しゅんじゅん》しつつ、しかしヘンケルは仕方なさそうに頷いた。  エウバートを不審げに睨み、距離を置いてドアに近づく。  ドアを開けようとした瞬間、エウバートがふざけた態度で『わっ』と言って子供っぽく脅したが、ヘンケルは驚かされた様子も見せず二人を密室に残して退出した。 「つまらないな、あそこは驚くところだと思わないか? ねぇ、チェリ」 「…………」  軽い口調のエウバートが近づくのを、チェリシュはドレスをたくしあげながら避けて後退する。 「おやおや、君の態度も殊勝《しゅしょう》とは言えないんだけど、チェリ」 「……俺たちを見つけたときに人を呼ばなかったところで、お前も同罪だよ、エウバート」 「可愛い顔をして駆け引きをしようというのかい?」  エウバートは軽やかに笑い、大きな動作で腕組みした。 「いいよ、僕は今、正直君に関心がある。君がどんな目的で、なんのためにこの街に来たのか、気になって仕方ないんだ」 「…………」 「退屈でたまらない日常に、君はまるであの美しい花火みたいに現れた。華やかで美しく、見ているだけでは満足できない」 「花火は近づけば火傷《やけど》するものだぞ」  嘲笑《ちょうしょう》したものの、チェリシュは胸の高鳴りを抑えている自分に気付いていた。  相手は恋の駆け引きに慣れた騎士見習いである。  色事には慣れているのだ。  自分はこういう駆け引きは不慣れな上、エウバートの美貌と美声にたっぷりと酔わされている。  この男は自分と向き合った相手がそうなるのを承知で、こんな風に慕わしげな口の利き方をしているのだ。 『ああいうハンサムとはまともに向き合ったらいけないよ。恋は遊びだと割り切っているんだ。本気には決してならない。相手には事欠かないのが、ああいう人種なんだからね。もしもそれでも構わないなら、自分も同じだけの割り切りができなきゃいけないのさ。そうでなかったら、後で傷ついて泣きを見るのはこっちなんだから』  痛いほど確かな経験を重ねてきたジュゼットの忠告が思い出される。 『あたしたちは旅から旅の根無し草、目的があっての旅なんだ。浮き草に本気の恋は御法度《ごはっと》だよ』  それがルチアナの釘だった。  チェリシュは相手は男なんだから筋違いだと言い張ったが、それでも恋に手馴れた女二人に首を振られると、おとなしく忠告を受け入れるのが正しいと感じられた。  エウバートの魅力は、確かに男だとか女だとかいう次元を超越している。  見つめていると、引かれずにはおれない魔的な威力を感じた。  近づいてはいけないと、本能が警告を発している。 「火傷してみたくないか? チェリ」  ひらりとマントを取り外し、エウバートが微笑んだ。 「僕は君に触れたい。君が何者なのか、確かめたいんだ」 「冗談じゃない」 「この場面で君に拒否する権利があるとは思えないんだけど」 「……あんた、騎士になる人物だろう」  唇を噛み、チェリシュはなお後退する。  確かに現場を押さえられた以上、拒絶できる場面ではない。  しかし屈辱的なはずのこの事態に、どうして自分の胸はこんなに高鳴り、頬は熱くほてるのだろう。 「こんな卑劣な取引をしていいのか?」 「卑劣な取引でも充分に甘い」  エウバートは胸元をゆるめ、チェリシュの間近に近づいた。  と、その小さな白い顎を指先ですくい取ってニヤリと笑う。 「苦い思いはしたくないだろう? お互い」 「…………」  言葉の通り甘い香りが香る。  痛い思いは充分している。そう主張したかったが声が出せない。  匂いが残れば証拠を隠すから、チェリシュは無臭だった。  あたりに漂う甘い香りはエウバートのものである。  クラリと、チェリシュの脳髄《のうずい》がとろけたような感覚になった。  寄せられる唇を、陶然と見つめ、受け入れてしまう。  それは自分の意思の力で拒めるものではなかったのだと、自分への言い訳を用意しながら、ままよとばかり、チェリシュは思い切って目を閉じたのだった。  禁断の、初めての官能の世界にダイブするために……。  興味がなかったと言ったら嘘になる。  そうなりたくなかったと言っても、今更誰も信じてはくれないだろう。  幾重《いくえ》にも薄絹が重なったドレスの裾を大きくまくり上げられて、その合間に逞《たくま》しい年上の若者の腰を挟み、チェリシュは初めての熱い口付けに夢中になっていた。  美しい、類まれな美貌の騎士見習いは、こういうことに卓越しているのだろう。  迷う素振りもなく秘密の奥まで手を差し入れてくる。  チェリシュは呻《うめ》いたり首をねじったりしながらも、決して逃げようとはしない。  きれいに掃除されて艶々《つやつや》した床の上で、金色の薄明かりに照らされながら、二人は淫《みだ》らにもつれ合う。  小さな頤《おとがい》を持ちあげて花のような赤い唇を開かせるたび、エウバートもまた禁忌《きんき》の陶酔に浸っていった。  この少年が何者なのか、そんな疑問は欲望の前に霧散する。  退屈な日常に光が差し込んだのだ。  チェリシュ・チェリーレイ。  何者だろうとかまわない。  愛らしいその喘《あえ》ぎ声を聞いているだけで、エウバートは運命の変転を約束された心地になった。  たとえこの女装が板に付いた少年が、貴族を狙うただのこそ泥だったとしてもかまわない。  いや、ただのこそ泥のはずがないと、エウバートにはわかっていた。  もしも小金が欲しいだけだったならば、なにも屋敷のこんな奥まった場所まで忍び込むことはないのだ。  しかもご丁寧な女装までして……。 「あ、いや……っ」 「しぃ、大丈夫、怖くないよ」  女とは違う場所を探り当て、エウバートは微笑んだ。  男の子相手は正直初めてだったが、なにもこの場で白状することはあるまい。  不思議な、味わったことのないときめきが、エウバートを夢中にさせている。  どうやら初めてらしいチェリシュは、目尻をしっとりにじませて訴えるようにこちらを見つめあげている。 「本当にいやなのか?」 「…………」 「可愛い、チェリシュ」  嫌なはずがあるものかと、エウバートは禁断の場所を更に探る。  小鳥のように小さな鳴き声が断続的にあがる。  ドレスの下でもハッキリと、興奮している気配が伝わってきた。 「う、あう」  性的な経験の薄い、いや、ほとんどないと言ってもいい初心《うぶ》なチェリシュは、繊細な長い指に性器をいじられる快感に朦朧《もうろう》となる。  熱くて横を向くと首筋に舌が這う。逃げようとしてもゾワゾワと、なぶられたそばから激しすぎる快楽が襲ってきた。 「あっ、あう……っ」  悲鳴に近い声をあげ、チェリシュは他人の手によって射精する。  ピクピクと、何もしなくてもほっそりした腰が跳ねた。 「ねばねばしているよ」 「や、やらしいこと言うなっ」  エウバートのささやきに思わず泣き声があがる。 「しぃっ」  深い口付けが声をふさぐ。  ネットリとした粘液にまみれた指が、なお性器の周辺をまさぐっている。  何をされるのか、初めてであってもチェリシュはわかっていた。 「……いい子だね」  ゆっくりと、自分から腰をあげていく少年の動きに、エウバートは優しく微笑む。 「君は誤解しているかもしれないけれど、僕は悪い男じゃないよ」 「…………」 「君を悲しませるつもりなんてない」 「……この状況で……信じられるものか……」  下穿《したば》きを下ろしながら言う、やる気満々の男の言葉を、どうして鵜呑《うの》みにできるだろう。  ルチアナやジュゼットに忠告されるまでもない。  この状況にある男の言葉に、真実が含まれているとはとても思えなかった。 「チェリ」  苦笑して、エウバートはそむけたチェリシュの顔をこちらに向けさせる。 「僕を信じて、ね」 「…………」  甘やかな口付けと、それに負けない甘い言葉。  どちらも信じられない、そう、信じちゃいけない。  忠告を肝に銘じ自覚して、自分に言い聞かせながら、チェリシュはしかし、たちまち男の手管に夢中になっている。  快感は逆らいがたく、ときめきは大きくなるばかりだった。 「あ、ああっ」  唾液のあふれた唇を大きく開き、チェリシュは破瓜《はか》の痛みを味わう。  男でもその瞬間があるとしたら、それがこの瞬間だった。 「いたっ、いたいっ」 「ごめ……思ったより……たいへんだ」  作業に従じた職人のような態度で、しかしエウバートはモテる男の沽券《こけん》にかけてチェリシュの快楽を引き出す努力を怠《おこた》らない。 「ゆっくり、お願いだからリラックスして、大丈夫、怖くないだろう? 僕を少しでも好きなら、それでいいんだ。これが君にとって一夜の幻になったとしても、僕は一生抱えていく」 「イタイ……イタイよ……」  涙目でエウバートにすがりつき、チェリシュは小さく文句をつける。  男がその苦痛を与えているのだとわかっていても、すがらずにはいられなかった。  甘い香りとたくましい腕に包まれていると、えも言われない安心感がこみあげる。  それはやがてゆるやかな律動に変じていった。 「あ、あ……」 「いい感じかも……」  肉のこすれ合う濡れた音を聞きながら、エウバートの頬も紅潮している。  快楽を追う男独特の、勝手な動きをしながらも、その瞳はたえずチェリシュの様子をうかがっている。  その優しすぎるスミレ色の瞳の力を感じるたびに、チェリシュは胸の奥から熱い塊《かたまり》が込み上げるのを抑えきれなくなった。 「エウバート……」  名前を呼び、自分の中にいる男の存在をかみ締める。 「イイ……、なんか、なんかイイ、こんなの、俺、はじめてだよぉ」 「僕もだよ、チェリ」  荒い息の底から、エウバートも優しい声でささやく。 「君が感じてくれて、うれしい」 「あ、あうっ」  エウバートの腰のうごめきが動物的になっていくに従い、二人のささやきは言葉にならなくなる。  やがてのしかかる男の背中を強く抱き、チェリシュは再び絶頂に達する。  小さな可愛い悲鳴を聞いて、エウバートも達した。  物柔らかな衣擦《きぬず》れの音が、シンと静まった小部屋を支配する。  泣き顔を見下ろしたエウバートは、かつてない憐《あわ》れみにも似た気持ちを抱きながら、腕の中の頼りない少年に口付けをした。    ◆3 クライマックス  大歓声の渦巻く中、コーカサス卿の屋敷ではまだまだ熱気が冷めやらなかった。  しかし本当の舞台がこれで終わったわけではない。  ジュゼットに惜しみない賞賛を送る観客たちも、この類まれな才能に溢れた美貌の女優にこれから降りかかる災厄《さいやく》を思うと、どことなく夜空同様に曇りがちだ。  先刻までは晴れ渡っていた空模様がにわかに曇ったのをしおに、招待客たちは帰宅の途につきはじめた。 〈赤鴉〉一座の面々は、運び込んだ器材を片付けるのにてんてこ舞いである。  その中で当然のようにジュゼットはルンバックに呼び出されていた。  覚悟をするもしないもない。  こういったシーンが初めてだと生娘《きむすめ》のごとく怯えるには、ジュゼットはあまりにも場馴れしすぎていた。  先ほどまでは芝居が行われ、花火を見上げる人でごった返していた庭園を見渡した広間に、ジュゼットは〈赤鴉〉で一人、殊勝な態度で入っていく。  裾が大きくふくらんだドレス、柔らかな物腰を引き立てるクラシカルな装いは、あくまでも女性的で、年相応の匂い立つ色香が漂っていた。 「素晴らしい演技であったぞ、“黄金のジュゼット”」  こもった声音で言ったのは、豪奢な長椅子に敷き詰めたクッションに埋もれるように腰掛けたコーカサス卿である。  肥えた腹がでっぷりと突き出た貴族は、ジュゼットの美貌を間近で見ようと身を乗り出したようだったが、なにしろ体が大きすぎて身じろいだようにしか見えない。 「おお、おお」  上品に頭を下げたジュゼットの優美な礼に、卿は大層喜んで声を漏らす。 「近くで見ても噂にたがわぬ美形じゃな」 「おそれいります」  ニコリと、口元に華やかな笑みを浮かべたものの、ジュゼットは内心でベェッと舌を出している。  これが仕事でなかったら、とっとと踵を返しているところであったし、月のものもまだ終わっていない。  気分はまだまだ良好とは言いがたかった。  それどころかこんな薄汚い背徳貴族を前にして、最悪の気分と言っていい。 「こんなに大きな美しいお館で公演させていただいて、私ども〈赤鴉〉一同は幸福者でございます」 「クレリアは気に入ったか?」  ぐふぐふという含み笑いをこぼし、コーカサス卿は尋ねる。 「そなたの美貌にふさわしい、素晴らしい花の都であろう?」 「はい」  おとなしく頷き、ジュゼットは気乗りなげに、しかし無言のルンバックに急き立てられて、卿の面前に近づく。 「薔薇は女王陛下が統《す》べる我らがローザの国花ながら、なおこのクレリアを飾るにふさわしいかと思われました」 「ふふん、であろう?」  大きな分厚い唇をペロリと舐め、コーカサス卿はジュゼットを手招いた。 「私は美しいものを愛する、美しい女はもっとも愛する存在だ」 「卿に愛される女人はさぞや幸福でございましょう」  頭を垂れ、ジュゼットはうんざりした顔を床に向けた。  この上品さのカケラもない貴族と向かい合って駆け引きにも似た会話を続ける茶番は、長く持ちそうにない。  誰でもいいから早くなんとかしてくれと、空気を読む。 「ジュゼットよ」  ミシリと音がして、巨体を起こすコーカサス卿の気配がする。 「美しいジュゼット」 「……どうぞそのように過分な賛辞は、もっとふさわしいお方のためにとっておいてくだされませ」 「お前以上にこの言葉のふさわしい者などおるまいよ」 「恐れ入ります」  早く、と、誰にともなくジュゼットは祈った。  さっさとこの場を収めてしまいたい。  イライラすると何をしでかすか、自分でもわからなかった。 「ジュゼット嬢、ささ、もそっと卿のお側近くにはべられよ」  ルンバックが少々顔を引きつらせて、動こうとしないジュゼットをうながす。 「まぁ、卿の寵愛《ちょうあい》を一手に浴びるなんて、羨《うらや》ましいですこと」 「本当に」  ホホホと、本音とは思えないささやきが広間に集まった追従屋たちの口から次々にこぼれた。  館にいたまともな客層はとうに帰宅してしまい、残っているのはコーカサス卿に尾を振る腐れきった連中だけである。  ジュゼットの気分に従うように、おもてはいよいよ雨がポツポツと降り始めている。 「……お側に寄るわけには参りませんわ」  むわっという香油と汗のにおいに、むさくるしい巨体の主が歩み寄るのを感じて、ジュゼットはたまらなくなって答えた。 「照れておるのか? 可愛いやつめ」  コーカサス卿はぷっくりとふくらんだ毛虫のような指を伸ばす。  柔らかそうな、その豊かな金色の頭に。 「噂では町の無頼な輩をあしらったほどの男勝りと聞いておるぞ、照れるたちではあるまい」 「ええ、その通りです」  ぐっと身を起こし、ジュゼットは顔に近づいた指を羽根扇の先で強く弾いた。  パシッと、緊張したホールにその音が響く。 「照れているのではありませんわ、汚らわしくて、とても近くに寄りたくないという意味ですもの」 「なっ」  あんぐりと、驚愕《きょうがく》に口を開いたのはコーカサス卿だけではない。  その場に居合わせた頽廃的なムードに浸った連中が、全員ジュゼットの暴言に呆然となる。  ザーーッと、おりしも勢いよく、いよいよ雨も本降りとなった。 「なんだと? なんと申したのだ」 「申し上げた通りですわ」  ふんっと、鼻を鳴らしたジュゼットは扇を振り回すようにして歩き出した。  まるで芝居の一場面のように、周囲を見渡して睥睨《へいげい》する。 「コーカサス卿、貴方はご自身にまつわる汚職の噂をご存知ないのですか?」  ジュゼットの言葉にシンとして、広間はざわめきすらも静まった。 「ぶ、無礼なっ」  急いで口を挟んだルンバックが、色をなくしてジュゼットを抑えようとしたが、長い裾をきれいに蹴散らした女優は、官吏の手に捕らわれることはなかった。 「なにを証拠にっ」 「証拠だったらあるわ」  あるけど、今ここにはないと、ジュゼットは内心で舌打ちする。 「往生際の悪い人たちね、だから汚らわしいと言っているのよ」 「……少々気が強いほどならば、興趣《きょうしゅ》もそそるものだが、暴言がすぎれば仕置きせねばならぬぞ」  ニヤニヤ笑いを消し、コーカサス卿は重い体を長椅子の定位置に戻した。 「私は寛容だ、許しを請うならば許そう、ジュゼット」 「冗談じゃないわ」  両手を広げ、ままよとばかりジュゼットは啖呵《たんか》を切る。 「世の中がどんなに平和でも、なにもかも許されるわけじゃないよ、観念しなっ」 「…………」  ジュゼットの態度に不穏を感じたルンバックは、顎をひねって首に吊るした呼ぶ子を吹いた。  ほどなくしてどやどやと物騒な声がして、どこに隠れていたのか、広間の入り口から噂のカニガン一家が現れた。 「もったいない」  ドレスをはいで少年の装束に変じたチェリシュを見て、エウバートは思わずといった調子でつぶやいた。 「もったいないだと?」  ムッとしたチェリシュは長い金髪を後ろで一つにまとめてキッとばかり男を振り返る。 「なんでお前にそんなこと言われなきゃならないんだよ」 「いやいや、他意はないとも」  慌てて否定したエウバートは、降参と両手をあげる。 「ただ、ドレスもよく似合っていたのになと思ってさ」 「お前がドレスでなかったらお断りだって言うなら、俺は二度と女装しないと誓えるぜ」  唇を噛み、チェリシュは悔しさを味わって自嘲《じちょう》する。  このくらいで振り回されて本気で悔しいと感じるのは、不本意だった。 「正直なところを言わせてもらうと」  言いかけてエウバートは小首を傾げる。 「…………」  自覚のない不安を示し、チェリシュが肩越しにジッとエウバートを見つめた。 「君は裸が一番だと思う」 「ッ!」  ポカッと、躊躇《ちゅうちょ》なく一発、チェリシュはエウバートの顎に拳《こぶし》を放った。 「イタタタッ」  苦痛を訴えながらも、見事なスウェーバックでエウバートは一撃のクリティカルを避ける。 「ふんっ」  相手をするだけ損だとばかり、チェリシュは足早に元来た通路を走る。  手に入れた書類があればコーカサス卿がルンバックと共謀《きょうぼう》して不法に税収を吸い上げ、カニガン一家を利用して街を不当に仕切っていたことも立証できる。 「君はいったい何者なのかと、聞いたら答えてくれるんだろうか?」 「…………」  背中からついてくる声に問われたが、チェリシュは無視した。  心のどこかで振り返りたい衝動に駆られたが、間違っていることはわかっている。 「まぁいいよ、答えてくれなくても」  かたくなな小さな金色の後頭部を見つめ、エウバートは言った。 「ところで、君にはこれが必要なんじゃないかなぁ」 「えっ?」  何を言われているのか、一瞬わからず停止したチェリシュは、振り向いてエウバートが手にしている書類の束を見てギョッとした。 「それは……」  慌ててズボンのポケットを探り、チェリシュは飛び跳ねそうになる。 「いつの間にっ」 「ごめんよ」  エウバートは書類を握り、困惑したようにたたずんだ。 「僕もどうすることがいいのか、今迷っているんだよ」 「それをよこせよっ」 「これは中央政府が定めた以上の税率を領民に課した、卿の捺印《なついん》が入ったルンバックの計画書だ。不当な取引の証拠に間違いない。州知事の手に渡れば、ルンバックは罷免《ひめん》され、卿も領地を失うだろう。彼らがどうなろうと、正直僕には関係ないが、君にこれを渡したら、このクレリアの町はどうなるんだろう?」 「……報いを受けるだけだ」  唇を歪め、チェリシュは言い捨てる。 「不当な利益でいい思いをしてきた者たちは裁かれて当然だろう」 「すると君は、中央政府がよこした若きお役人ということになるのかな」 「…………」 「ここまで教えて、なお秘密に?」  エウバートは肩をすくめて笑う。 「僕は君のすべてを知っているというのに」 「お前は俺のことを、何も知りはしないさ」 「首筋を舐めたらどこがどうなるか君自身だって知らないことを、知っているよ」 「ばかっ!」  殴りかかり、書類を取り戻そうとしてチェリシュは必死になったが、エウバートは大きな体に似つかわしくないほど機敏だった。  柔軟性でも俊敏さでも負けると思っていなかったチェリシュの方が、やがて肩で息をつくことになる。 「僕はこの町が嫌いじゃなかったよ。確かに不公平や不法がはびこっている。役人も真面目とは言いがたい人たちがそろっていたしね。だけどそれが他の都市と比べて悪徳に満ちていたとは思わない」 「小さな腐敗が小さな善良を蝕《むしば》むことを、女王陛下が望んでいるとでも?」  息荒くチェリシュが言うと、エウバートの目つきが変わる。 「……女王陛下ね、女王陛下の望みとは……なるほど」  ニィと、人好きのする微笑をエウバートは浮かべた。  しかしそれ以上の言葉を続けようとしたとき、屋敷のどこかから悲鳴が聞こえてくる。 「なんだ……?」 「!」  エウバートの意識がそれたのを読み、チェリシュは手を伸ばした。  さっと書類を手にした瞬間、互いの視線が交差する。  捕らえることはできた。  手を伸ばし、逃げるその体を抑えることも苦ではなかっただろう。  しかしエウバートはできなかった。 「ふふ……」  女では決してありえなかった少年の身軽な後姿を見送ってしまいそうになった彼は、迷いを笑い飛ばす勢いで後を追って走り出した。  悲鳴と怒号が飛び交う中、ジュゼットはまるで芝居の早変わりのごとくドレスを脱ぎ捨て、体の線があらわになるほどタイトな上下という姿になっている。  白い薄手のシャツブラウスに茶色いピッタリとした革のパンツという姿は、どう見ても女優というよりは盗賊といった風である。 「アンタが俺の部下を馬鹿にしてくれたっていう女優さんかい」  カニガンは漆黒の髪と瞳をしたいかにも風な無頼漢で、大きな体も目立ったが、何より傷だらけになった赤茶の顔が、迫力を不動のものにしていた。  彼のかたわらで追従笑いを浮かべているルンバックが、むしろ配下のこそ泥にでも見えるほどだ。 「下町で大騒ぎしている分にはお偉いさん方もお許しになってくれるだろうが、よりによって領主様の屋敷でこの騒ぎとは、なっちゃいねぇな」 「なっていようといまいと、そんなことはちっともかまやしないのよ」  怒鳴ったジュゼットの勝気なセリフは、睨んだ男たちの失笑を買った。 「往生際の悪いっ!」  ドレスの裾にたっぷりと隠してあった武器の類を床に散らし、カニガン率いる無法者たちに囲まれたジュゼットは指笛を高らかに鳴らした。 「そっちこそ!」  やっちまえ、という声が響く中、ガラスの割れる音がする。  指笛によって、雨に濡れた〈赤鴉〉一座の連中が大勢でなだれ込んでくる。 「いったい何事だっ!」  女優が騒ぎ出したと思ったら、ならず者たちがやってきた。そこまではコーカサス卿にとっても理解の範疇《はんちゅう》にあったが、ガラスが破られ、さらに得体の知れない集団がやってくるのは想像を絶している。 「こ、ここはお逃げになられた方が得策かと、閣下……!」  自分の招いたカニガン一家が、ほとんど躊躇もなく広間で暴れ始めたのを横目に、ルンバックは卿のかたわらに転げながら言った。  もしも卿が逃げぬと言うならば、自分だけでも逃げたかった。 「なにがなんだか……」  腹を揺すり、気に入りの愛人に支えてもらい、コーカサス卿は親衛隊を呼ぶ。  突然の騒動に、色ぼけた彼の脳みそはろくな反応を示さなかった。 「お前さんたちは逃げられないよ、領主コーカサス、官吏ルンバック」  よく響く渋い声がして、広間の中層階に巡らせたキャットウォーク部分に、〈赤鴉〉座長ルチアナが現れた。  こちらもジュゼット同様、盗賊にも似た身軽なスタイルをしていたが、無論肥満体だけはそのままである。 「証拠の書類はこちらにある」 「な、なんの証拠だって言うんだ!」  ルチアナが示した書類の束に、ルンバックがヒステリックな声をあげた。 「お前さん方が国家に納めるべき税金を横領し、さらにクレリア市民に勝手に上乗せした税金を不当に搾取《さくしゅ》していた証拠だよ」 「そんなものはあるはずないっ!」 「そうだっ、知らんっ」  ルンバックとそろってコーカサス卿も否定の声をあげる。 「そもそもお前たちは何者だっ! たかだか旅の遊興団の分際で、なにを勝手に貴族の屋敷を荒らしまわる!」 「そう、私らは確かにただの遊興一座だよ」  言いながら、ルチアナはよっこらしょと、横にずれた。  後ろに控えていたヘンケルが、しごく真面目な顔つきで一枚の書状を開いてさらす。  ホールの誰もが目をすがめたが、遠すぎて何が記されているかわからない。 「遠くからでは見えないだろう、ジュゼット」 「あいよ、おっかさん」  身軽に集まった仲間に適当な武器を配っていたジュゼットは、ニヤリと笑い、みずからの腰に佩刀《はいとう》していた細いしなやかな剣先のレイピアを抜いた。 「腐ったその目に焼き付けな!」  ジュゼットが言いざま、レイピアの真っ白い鞘《さや》を、ベルトの吊るしから引き抜いてルンバックに投げつけた。 「……こ、これはっ」  白銀の鞘の精巧な細工が施された部位に、独特の薔薇の紋章が記されている。  それはまぎれもない、ローザ王国の国民ならば誰でも知っている。  王家の紋章、女王ローズリンデ十世と、その直属の臣下だけが所持することを許された薔薇十字の刻印だ。 「私たち一座は、女王陛下の御下命《ごかめい》を受けた、隠密の不正取締官吏なのさ」  胸を張り、ルチアナが女王の印璽《いんじ》が押された正式な書類を示す。  コーカサス卿たちの目には、上の階層にいるヘンケルの持った書面は読み取れなかったが、〈赤鴉〉に自分たちを裁く資格があることは充分わかっていた。  薔薇十字の紋章を武器に刻むなど、これが騙《かた》りであったなら、即刻死刑の重罪である。  旅の一座が伊達《だて》や酔狂で女王の下命を騙ることはありえなかった。 「ええい、今更引けるものではないわっ!」  いったいどういうことなのか、さすがに引き気味のならず者たちに向かって、コーカサス卿ではなく神経が切れたらしいルンバックが煽《あお》り立てる。 「やってしまえ! 全員やってしまうんだっ! それしかない」 「合点《がってん》だ……!」  カニガンは一瞬だけ顔色を変えたものの、ルンバックの狂気にも似た言葉に自分たちの運命の終幕を見た。  声をあげ、彼も部下を鼓舞して煽り立てる。 「この馬鹿どもがっ!」  ならず者たちの浅はかさにルチアナは頭を抱えたが、そんな暇もなくなった。  事態を聞いたコーカサス卿の親衛隊が、目の色を変えてこちらにやって来るのが見える。 「ヘンケル!」 「うへぇっ」  書状を丁寧に片付けながら、警告の声に少年は飛びすさる。  もう少しのところで首から上がなくなりかけた、その時だった。 「ぐへっ!」  抜剣してヘンケルに斬りかかっていた親衛隊員が、苦鳴を漏らしてその場に転倒する。 「チェリ!」  蹴りつけて地に這わせた隊員の頭を後ろからもう一度蹴りつけて現れたのは、格好はジュゼットに瓜二つでも、顔立ちも性別もまったく異なった少年、金髪に青い瞳が凛《りん》とした、チェリシュ・チェリーレイに違いなかった。 「始まってたか」 「下に行っておくれ、みんなを頼むよ!」  ルチアナが広間のホールを指差すと、そこはもはや阿鼻叫喚《あびきょうかん》、敵も味方も入り乱れての大騒ぎとなっている。  吹き込む雨、入り乱れる男たちの真ん中で、麗しのジュゼットも金髪を振り乱して大暴れしていた。 「わかった、これを」  チェリは不正の証である書類をルチアナに託し、ホールに散らばった武器を目で追う。 「……いってくる」 「チェリ! 僕も行くよ!」 「あんた誰だいっ」  現れたハンサムにルチアナが誰何《すいか》する間もなく、チェリシュは後ろも見ずに手すりを乗り越える。  その少し後に続いたのは、マントを華麗にひるがえらせたエウバートである。 「うぅん、なるほど……ありゃあイイ男だね」 「…………」  見送ったルチアナのつぶやきに、ヘンケルは目をすがめて同意を避けた。  ホールの真ん中に躍り出たチェリシュの目立つことは抜きん出ていたが、無論そればかりではない。  後から続いて舞い降りた見習い騎士の華麗な立ち回りも、周囲は息を呑んで見守る。 「貴様は騎士団のエウバート・ザイバッシュではないかっ!」 「ご機嫌麗しゅう? サー」  片手に剣を、片手に悪漢の首を抱えたままで、エウバートは優雅な一礼をした。  もちろん一礼をしたあとで、暴れる男の背中を軽く蹴飛ばして太ももあたりをプスリと刺すのは忘れない。  ウギャーという悲鳴があがり、血の色が床に散る。 「機嫌がいいものかっ!」  コーカサス卿はジタバタと暴れつつ、親衛隊に肉の壁を強要し、少しずつ出口に向かっている。 「貴様はクレリアを守護すべき立場にありながら、領主である私に刃を向けるつもりなのか!」 「守る立場であるからこそ、思案しているのですが」  ふうっと、エウバートは男でも見とれる魅力的な笑顔を浮かべた。 「お逃げになられるのですか?」 「逃げるのではないっ!」  白いまるい顔を真っ赤にして卿は唾を飛ばして叫ぶ。 「このままではルンバックと共に犯罪者となってしまう! 女王陛下に釈明しなければならないのだ」 「貴方に釈明の余地がおありで?」  エウバートは苦笑した。 「貴方が不正を働いていることを黙認していたという咎を問われるならば、僕も立派な悪党だが、ここまできて逃げるつもりは毛頭《もうとう》ありませんよ」 「貴様のような色好みの女たらしに何がわかると言うのだ!」 「そう言われてしまうと、否定はできませんが」 「貴様のように女王の靴先を舐めて媚びて済むものではないのだっ」 ”貴様のような者”になにがわかるとくり返すコーカサス卿の号令のもと、親衛隊員がいっせいにエウバートに襲い掛かった。  迎え討ったエウバートだが、優美な外見に反し意外にも剣技に達者で屈強な彼にも、限界がある。 「っ!」  息を飲み、襲ってくる剣先から逃げようとした足元が、血の染みでふらついた。 「重……っ」 「チェリ!」  避けながらも刺されるのを覚悟して転倒しかかったエウバートは、思いがけず背中を支えられ、突き出された剣を剣で弾くことに成功した。 「さっさとどけっ!」  エウバートの体重を支えてやったチェリシュは、赤い顔をして男の影から出た。 「貴族ならば形だけでも恥を知ったらどうなんだ!」  右に左に親衛隊員の剣を避け、チェリシュは小柄な体躯《たいく》を生かして見事にコーカサス卿の胸元に短剣の切っ先を突きつけている。 「さぁ、どうする?」 「……あわわわ……」  成熟した大人の階段を一つ登って凄みを増した美貌の少年に問われ、コーカサス卿は耐えられず膝をつく。  引けという命令を放つまでもなく、ホールのカニガン一家、親衛隊のほとんどは、〈赤鴉〉たちによって完膚《かんぷ》なきまでに叩きのめされていた。  雨はあたりの空気を洗ったが、腐敗した貴族の罪だけは、どんな自然の力でも拭《ぬぐ》いようがなかった。 ◆ エピローグ  雨の上がった石畳の道を、〈赤鴉〉一座の陸上船がゆっくりと発進する。  コーカサス卿と、彼に属した一派は、町の治安部隊である騎士団が預かった。  証拠書類の類は、〈赤鴉〉一座の密偵が州知事に届けるべく先に出発している。  朝になればすべてが白日のもとにさらされ、何も知らなかった人々の耳にも、この顛末《てんまつ》が入るだろう。  やがてはその伝聞が物語となり、伝説となるのやもしれない。  しかし今、彼らの賞賛と感謝の念を一身に受けるべき〈赤鴉〉一座は、そんな事態は知らずにいた。  訪れた時と違い、その発進には華やかな歓声も、見送る客の群れもない。  夜明け前に出発し、噂が届く前に次の町に向かう。  それが彼らの仕事であり、形のない誇りのもと、賞賛を退けるのが、至尊《しそん》なる女王への最大の忠誠の証だった。 「しょんぼりするんじゃないわよ、辛気《しんき》臭いわねっ」  船の後部甲板から遠くなる花の都を見つめているチェリシュに、ジュゼットが発破をかける。  出会った人たちへの別れの言葉一つ、名残を惜しむ時間一分と、与えられずに旅立つのが一座の掟《おきて》なのだ。 「あんな色男にお初を奪われて抱かれたんだから、むしろラッキーと思いなさいよ」 「なんでそれを……っ」  真っ赤になったチェリシュの視界に、船内にこそこそと消えて行くヘンケルの後姿が入る。 「ああいう男は仕方ないよ、わかってんだろう? チェリ」 「……わかってるさ」  何もこだわっちゃいない。  何も執着していない。  そんな風に思いながらも、未練が浮かび上がって胸が締め付けられる。 「わかってるけど……」 「あぁ、チェリ、あんたったら」  唇を噛み締めた少年の瞳に浮かんだ涙の色に、同じ経験を思い出したジュゼットもまた胸を締め付けられた。 「とっくに恋しちゃってたのか。じゃあ仕方ないわね」  行きずりとわかっていても、夢とわかっていても、それでも恋は訪れる。  胸に深い傷を残し、つらい思い出を刻みながら、それでも痛みはあくまでも甘い。  酔うほどに……。  夜明けの薔薇畑に囲まれた道をゆっくりと船は行く。  その振動にあわせて、チェリシュも次の仕事につくために甲板を降りる。  恋をなくしたとしても、彼にはすべきことがたくさんあった。  不正を暴く女王陛下の隠密官吏としての役目は、むしろ日常である〈赤鴉〉一座としての余録《よろく》にすぎないと言ってよかった。 ──甘い恋の夢よ〜   一夜の麗しき乙女よ〜 「えっ?」  と、その耳にすでになつかしいと言っていい声音による甘い歌が届いた。 「まさか……」  ざわめく胸を殺し、馬鹿っぽい詩を歌う主《ぬし》の元に駆けつける。  蒸気の生ぬるい通路を走り、厨房の一角に駆け込んだ。 「あ、チェリ」 「エウバート!?」  甘い美貌の騎士見習いは、あの華やかなマントもなく、軽装に身を包んで古びたバケツを抱きしめている。  片手にナイフ、片手にジャガイモを握っていた。 「何してるんだよっ!」 「朝食のしたくを」 「なぜっ!?」  聞きながらも、ここにいる理由はすぐに思いつく。 「ルチアナだな……」  旅先でこれはというお気に入りを見つけては、すぐに旅団の一員にするルチアナの癖は承知している。  むしろエウバートがルチアナのスカウトに乗ったことの方が信じられない。  彼は貴族の子息である騎士見習いであり、彼を騎士団の一員として派遣したのは、名目上だけとは言っても女王なのである。  たとえクレリアの領主が代わったとしても、彼の任務にはまったく影響がないのだ。  彼はあくまでも女王の命だけに従う義務がある。  職務を放棄し、義務から逃れたとなれば、彼は処罰を受ける身となるのだ。 「なぜだ……エウバート」  いくらコーカサス卿の悪事を見逃していたとは言っても、そこは見習い騎士の身の上だ、汚職に関わったわけではないのだから、実際に処分がされることはありえない。  彼がクレリアを出奔《しゅっぽん》する必要はなかった。 「君を追いかけたくて」 「…………」 「チェリ」  嘘だと、そう言いたげに歪んだ少年の顔つきを見て、エウバートは立ち上がり、抱きしめる。  バケツよりも優しく、もちろん愛をこめて。 「……後悔するなよ」 「もちろんさ」  憎まれ口を叩く唇を唇で塞ぐまでに時間はかからない。  言葉はさして必要ない。  その体が、そばにあることの方がはるかに重要だった。 ──この日の朝食は遅れたが、二人の時間は始まったばかりだったので、何も問題はなかった。